【税理士受験期⓪-1】ひとはいかにして簿記の勉強を始めようと思うのか

こんにちは。税理士の北野です。
このブログは、こちらの記事の続きです。
今回は私が簿記の勉強を始める前のお話です。


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「働きながら3年で合格しました」
そのように一言で語られる合格体験記や受験記には、しばしば出発点が見えません。
たとえば「簿記1級合格後の3年間」なのか、それとも「まったくの初学者から3年間」なのかで、難易度も努力量もまったく違います。
さらに言えば、地頭や基礎学力、家庭環境、家事・育児の負担など、学習を取り巻く条件は人によって千差万別です。
だからこそ、このブログでは、簿記を学び始める前の私の経歴やステータスを赤裸々に語るところから受験記をスタートしたいと思います。

目次

■ 小学校時代

小学校のときは公文に通っていたこともあり、テストはいつも満点でした。
ただ、私の出身地のような田舎で公文などに通っていると「ガリ勉」と言われてしまうため、それが嫌でこそこそと通っていました。
小5のときに両親を説得し、公文を卒業することに成功しました。
それ以来、両親から「勉強しろ」と言われることはなくなり、放任となりました。
基本的にはサッカーをして過ごすことが多かったです。
唯一の自慢は映画ハリーポッターの1作(賢者の石)から3作(アズカバンの囚人)までのセリフを丸暗記していたことくらいで、神童エピソードなど皆無のまま、公立中学へ進みました。

■ 中学校時代

中学では勉強をせずともテストは学年トップ3に入るのが当たり前という状態でした。
「勉強してないのに成績がいい=地頭がいい」と思い込み、それをかっこいいものと思っていました。
さらに「無気力さ」を「クール」なことと勘違いしているような、今思えば、いや~な奴でした。
NARUTOのシカマルとか、シャーマンキングの葉とか、デスノートのLに影響を受けていたものと思われます。
実に痛々しい過去です。

■ 高校時代

その後、地元の進学校である佐世保北高校に入学しました。
最初の試験の順位は240人中220位。中学時代からの無気力さを継続し「まあそんなもんか」と特にショックもなし。
部活(サッカー)をするか本や漫画を読むか、映画を見るかという日々が続きました。
兄の影響があり、高2のときに「大学は東京、できれば早稲田に行きたい」と思い立ちました。
そこでバス通学中に読んでいた小説を英語のテキストに替えてみたところ、面白いほど成績が伸びました。
努力すれば伸びる――当たり前の事実に気づき、勉強量を増やした結果、運よく、早稲田大学の指定校推薦を獲得します。
得意科目は英語、苦手は数学でした。
(華やかな一般合格ではなく、やや肩身の狭い指定校ルートなわけですが、「そのあたりも前提情報として知りたい」と思う人もいるはずですのでちゃんと書きます。)

■ 大学時代

大学では「学生の本分=勉強」とは無縁の生活。
1年生の頃は鳥貴族でアルバイト三昧でした。新歓で誘われたサッカーサークルは合わず、すぐに退会しました。
サークル難民となって退屈していたときに「早稲田では演劇と探検と麻雀に手を出すな」というネットの記事に遭遇。
手を出すなと言われると、それらのことに手を出してみたくなりました。
「麻雀」も「探検」もよくわからないなと思い、「演劇」をやってみようと思いました。
そして大学2年から「軍隊」と呼ばれる早稲田大学演劇研究会(通称:劇研)へ入会。
ハードな環境で、物怖じしない度胸と恥をかいても気にしないマインドを手に入れました。
とはいえ俳優になる気はなく、4年で演劇活動を卒業し、就職活動へ。
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余談ですが、「手を出すな」と言われる理由は、これらに手を出すと授業に出られなくなるからです。
劇研は公演前はほぼ24時間稼働で大学中退者も多数輩出しています。
早稲田の探検部は世界の未踏の山に登ったりしてその山に名前を付けたりするようなところです。命の危険もあります。
麻雀は言わずもがな。

■ 社会人時代

新卒ではフィンテック企業のGMOペイメントゲートウェイに入社しました。
その後子会社のGMOイプシロンで決済代行の営業や新規事業のプロジェクトリーダーを担当します。
2020年、会社上層部がぶち上げた新規事業の現場責任者に任命されました。
それからは、朝一番に出社し深夜まで働く生活が続きました。土日も数字が頭から離れない。表彰を受けてもプレッシャーは増すばかり。
そんな折、父が脳梗塞で倒れ、左半身麻痺に。仕事の疲弊と家族の不安が重なり、メンタルは急降下。
プロジェクトもうまく回らず、自信は地に落ちました。
今振り返ると、この時が転機だったかと思います。


なぜ簿記だったのか

親父が倒れて、東京でサラリーマンを続けるか、地元に戻って別の仕事をするか、そんなことを悩み始めました。
地元に戻るとしたら、仕事は何をしようか。
それから自己分析を深めるうちに、多様な業種と関われる「税理士」という選択肢が浮上します。
「税理士ならば地元でもそれなりに稼げるだろう、そして、IT企業での経験も生きてくるだろう」
そんなことを考えました。

しかし、当時の私は、プロジェクトリーダーの失敗などもあり、大きな決断をすることに自信を持てない状態でした。
そのため、「まずは小さくても確実な成功体験を獲得しなければ・・」と思いました。
その入口として、日商簿記2級の勉強を始めることにしたのです。

失った自信を取り戻す“手応え”が欲しかった

こうして私は、25歳の春――机に向かい、最初の仕訳を書き始めました。
これが私の「簿記の勉強を始めた瞬間」です。

次回は、簿記の勉強を始めてから、日商簿記2級に合格するまでのことをお話いたします。
どうぞお楽しみに。

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コメント一覧 (2件)

  • […] 私が、新卒で入社した企業は、GMOペイメントゲートウェイ株式会社(以下、GMO-PG)。3か月の研修を経て、配属されたのがGMOイプシロン株式会社(GMO-PGの100%子会社)の営業部だった。「GMO」と聞くと、GMOクリック証券とかがテレビCMなどを出したりしているので、そのイメージが強い人が多いだろう。あるいは、GMO自体まったく知らないという人も少なくない。さて、私が2019年に入社したGMO-PGというのは、主にオンラインの決済代行事業を行っており、GMOインターネットグループの稼ぎ頭的な存在だ。(企業価値で言うと、親会社のGMOインターネットよりも、GMO-PGのほうが高く、いわゆる親子逆転現象が起こっている。)GMOには、「GMO●●」といった会社が100社以上あり、それぞれが新卒採用を行ったり、採用後に関連会社に出向という形で配属となったりする。私が、GMO-PGに新卒入社をした後、まずはGMOインターネットグループ全体で1週間程度の研修があった。その中で、グループ全体のイズムみたいなものを叩き込まれる。そのグループ全体研修が終わった後は、GMO-PG(単体)での研修が約3か月間続く。GMO-PGの同期入社は約30人ほど。この約3か月の研修後、テストがある。テスト成績が上位の人間は、希望する部署に配属されやすくなるといった仕組みであった。私のテスト結果はたしか5位あたりで、(まあ希望するところには入れるだろう)という算段となった。(もちろん、本人の適正と部署の特徴が合わないこともあるため、最終的には、希望通りいかないケースもある。)私は、GMO-PGの100%子会社であるGMOイプシロン株式会社の営業部を第1希望として提出し、無事、希望通りの配属となった。GMOイプシロンもGMO-PGと同様に決済代行を商材として扱うのだが、スモールビジネスの顧客層が多めで、新規事業の創出に積極的という特徴があった。私は大企業向けの営業よりもスモールビジネス向けの営業に関心があり、また「新規事業」といったワードに惹かれ、希望届を出したのであった。配属されてからは、「馬車馬のように」とは言わないまでも、きっちり役割をこなせるよう働いた。それから、1年後の2020年、会社上層部がぶち上げた新規事業のプロジェクトリーダーに任命された。その結果、もともとの業務に新規事業の仕事が加わった。それからは、朝一番に出社し深夜まで働く生活が続いた。土日も数字が頭から離れない。表彰を受けてもプレッシャーは増すばかり。そんな折、父が脳梗塞で倒れ、左半身麻痺に。仕事の疲弊と家族の不安が重なり、メンタルは急降下。プロジェクトもうまく回らず、自信は地に落ちる。(私は、そんな折に簿記の勉強を始めた。詳しくは以下の投稿を参照のこと。)https://kitanotax.com/jukenki-zeirishi0-1/父が脳梗塞で倒れ、リハビリを経て退院した2021年8月、私は介護休業を取ることにした。プロジェクトの仕事は直属の上司が変わってくれた。この1か月の介護休業の期間で、これからどうすべきかを考えた結果、東京から地元の長崎に戻ることを決めた。介護休業から仕事に戻って、しばらくした2021年の11月、3か月後の2月に退職したいという意向を直属の上司に伝えた。直属の上司には、家庭の状態などについても前もって話していたため、上司も(辞めるのだろうな)という予感はあったのだと思う。「残念だけど仕方ない」というようなことを言ってくれた。それから、残りの3か月間は、仕事の引継ぎなどをして過ごした。そして、最終出社日まで残り1か月となったある日、冒頭の出来事に戻る。GMOイプシロン(子会社)の社長が、「北野、(GMO-PGの)社長に退職の挨拶に行くぞ!アポ取って!」と言った。このときの私の心境は、(やっぱりか!)というものだった。これまで退職していった役職が上の人たちや、社長とある程度の関わりがあった人たちは、社長への挨拶をきっちり済ませて退職していった。一方、ほかの同期や少し上の先輩は、社長への挨拶は特にせずに退職していった。そのため、私はどうすべきか迷っていた。私の場合、社長と関わったのは、就活の最終面接のときや、新卒研修のときの社長面談のとき、あとはプロジェクトの稟議書を役員会議にあげたりしたとき(書面上)くらいであった。入社3年目のこの立場で社長へ挨拶へ行くべきかどうか迷っていた矢先に、「退職の挨拶に行くぞ」と子会社の社長が声をかけてくれたのであった。もちろん、言われる前から、絶対にきっちりと挨拶をしたほうがいいということは頭ではわかっていた。しかし、相手は上場会社の社長であり、新卒3年目の人間がわざわざアポを取るのも迷惑なのではないかというようなことを頭でごちゃごちゃと考えていた。なにより社長はとにかく強面だ。余談だが、GMO-PGはIT企業ではあるが、決済というお金にかかわる部分を扱ったりすることもあり、GMOの他のグループ会社とはまったく社風が異なっている。営業は基本スーツで仕事をする。中途入社の人は元銀行員が多い。(私の直属の上司も元銀行員である。)キラキラIT企業といったイメージとは無縁の厳格な雰囲気が漂っている。またまた余談だが、入社式の後の懇親会のような立食パーティーでの出来事がある。その懇親会では、役員たちがビール瓶をもって、「がんばれよ」などと言って新卒社員たちに酒をつぎ、新卒社員は「はい!頑張ります!」などと言って頭を下げる。その場には、寿司が出ていたのだが、新卒社員はあまり手をつけることなく、役員からのお酒をありがたく頂戴することに務めていた。そんな懇親会の最中、役員のひとりが私に「もっと遠慮しないで食え!」と寿司を勧めてきた。私は「はい!いただきます!」という返事とともに寿司を口に入れた。その時。副社長が私の隣に来て、私が持っているコップにビールを注ごうとした。私は、コップを両手で持ち替え、「ありがとうございます!いただきます!」と酌を受けた。すると、副社長の顔が豹変し、「口にものを入れて俺にしゃべるな。」と言った。そのとき私は(なんて理不尽なんだ)と思ったものだ。しかし、副社長が言うことも仰る通りで、お酌を受ける前に一瞬で寿司を飲み込まなかった私のほうにも問題がある。あるいは、副社長がビールを新卒社員に注いで回っているのを、横目で察し、役員Aから寿司を勧められることを事前に回避することもできたはずだ。飲み会の良し悪しは、多くの場合、ポジショニングが左右する。改めてそのようなことを悟った。というような過去もあり、とにかく役員たちと話をするというのは実に緊張するものだ。ましてや、これから社長へ挨拶に行かなければならなくなった。しかし、覚悟が決まれば、あとは淡々とタスクをこなしていくだけだ。社長の秘書にメールで、「かくかくしかじかで、社長に退職のご挨拶をしたく、、いついつなどはご都合いかがでしょうか。」といった内容を送った。すると、しばらくして日程の確保ができた。あとは、その日に退職のご挨拶に行き、「お世話になりました!」と声を張り上げるのみだ。しかし、事はそう単純に進んではくれなかった。時は2022年1月、まだコロナ禍の最中であり、まんえん防止などの対策がとられ、GMO-PGでもリモートワークが実施されていた。業務遂行に滞りがでるような場合に限り、一部の社員は出社してOKという規則であったので、自宅での仕事が合わなかった私は基本的に出社するようにしていた。社長への退職のアポが差し迫った約10日前。喉が痛み出し、咳が出始めた。私のちょっとした咳を敏感に察知した直属の上司は、「PCR検査受けたほうがいいんじゃない?」と言った。私は「大丈夫です!」と答えた。PCR検査で陽性と判断され、社長挨拶のアポを取り直すことだけは絶対に避けたかった。それは、一旦抑えた社長のスケジュールを新卒3年目の人間が取り消すということだ。そんなことをしたら、どのように思われるか、元来小心者の私は戦々恐々とした。それから、必死で咳を沈めるように努めた。しかし、事はそう単純に進んでくれない。当時、社内で体調不良者が続出し、「出社をする場合は全員PCR検査が必要」という総務部からの命令が下った。なんということだ。私の最終出社日までの主なタスクは、社長への退職挨拶だけだというのに。最悪のタイミングであった。この時、私に喉の痛みなどが出ていなければ、PCR検査をしても陰性だろうし、いくらかは気が休まったのに。よりによって、喉の痛みがあり、咳も出る状態で、陽性が出てもおかしくない状態であった(熱はなかった)。それから私はあらゆるリスクとパターンを想定した。①もしPCR検査をして陰性だったら →そのまま、指定の日時に退職の挨拶を行い、結果オーライ。②もしPCR検査をして陽性だったら → A.正直に陽性であった旨を総務に伝え、  →A-1.社長のアポを取り直し、自宅待機期間が終わった後、社長へ退職挨拶を行う。  →A-2.社長のアポを取り直さず、予定をキャンセルし、退職の挨拶を経ずに退職する。 → B.嘘で陰性であったと総務部に伝える。    →B-1.陰性だったと伝えたあとに、総務部から陰性証明書の提出を求められたら→嘘がばれて相当なバッシングがくるだろう。   →B-2.陰性だったと伝えたあとに、総務部から陰性証明書の提出を求められなければ→指定の日時に退職の挨拶を行う(良心の呵責あり)これらのことを想定したうえで、私は運命のPCR検査を受けた。検査結果が早く分かった方がいいので、1日後に結果が分かるものを申し込んだ。たしか15,000円くらいを支出した。痛い出費だが、早く安心したかった。それから検査結果を待つ時間は実にメンタルに悪かった。今、思い返せば、社長への退職挨拶もアポの取り直しも、そんなに気を張るようなことではないような気もするが、当時はとにかく、「そうしなければならない!」という感覚が支配していた。さて、翌日の朝10時、検査結果がメールで届いた。結果は、陰性だった。陰性証明書も添付で送られてきていた。私は、歓喜の雄たけびをあげていた。これで予定していた通り、社長への退職挨拶に行くことができる。陰性と分かり、私は早速、総務部へ社長アポがある日に出社の申請を出した。そして迎えた社長アポ当日。GMOイプシロン(子会社)の社長も同席のうえで、GMO-PG(親会社)の社長室へ行くことになった。社長室のドアをノックし、部屋に入る。「おう、どうした。」と眉間にしわを寄せた表情で社長が言う。相変わらずの強面だ。子会社の社長が、少しを前振りをし、私から社長に伝えた。「すみません、父が脳梗塞で倒れて、半身麻痺になりまして。地元に帰ることになり、退職することになりました。」余談だが、私は「介護が必要で地元に帰る」とは言わないようにしていた。私は介護をしに帰るわけではなく、地元で別のことをするために帰るのだ。「半身麻痺?上か?下か?」社長が聞く。「あ、左半身です。」 私が答える。ここで沈黙が起きた。「上か下か」と聞かれたら、「上」か「下」のどちらかの返答をするのが、常識だ。それを私は、正直に「左」と答えて、社長の言うことを否定してしまった。沈黙を埋めるように社長が聞く。「地元はどこや?」「佐世保です。」と私が答えると「なんや佐世保や。」と社長が返した。社長は福岡の出身なので、九州の人間に対していくらか仲間意識的なものをもっていることが感じられた。しかし、あとに続く社長の言葉は短かった。「そうか、まあ頑張れや。」「お世話になりました!」そう声を張り上げて私は、つむじが見えるほど頭を下げた。「おう。」と社長が眉間にしわを寄せたまま言った。「失礼しました。」と言って社長室を出た。文字に起こすとこれと言って特別なやり取りではないが、このときのことは印象に残っている。何より、新卒3年目の人間の退職挨拶に答えてもらったのが、嬉しかった。私が選んだファーストキャリアは大正解だったと思った。IT企業がもつスピード感や新規事業の創出についても勘所を得ることができ、金融機関が持つ厳格さ・社会人としての作法などについても学ぶことができた。それから3日後くらいに最終出社日を迎えた。フロアにいる社員の半数くらいが出社している状態であった。私は会社近くのデパ地下で買ったよく分からない高級そうなお菓子を配って、挨拶まわりをした。最終出社を終え、会社から出たとき。空は夕暮れに染まっていた。私の東京での生活が終わりを継げた。東京というキャンバスを一旦脇に置き、これからは18歳までを過ごした地元というキャンバスをもう一度引っ張り出して、そこに絵を加えていくのだ。そう思った。 […]

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