【小説】物憂げな楽園、華やかな地獄

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物憂げな楽園

五月の朝日が障子を透かして部屋に差し込んだ。佐世保の空は凪いでいた。
透明な青が窓の外に広がり、朝子は静かに目を覚ました。

彼女の生活は極めて単調だった。地元の会計事務所で事務員として働き始めて早四年になる。毎朝六時に起き、質素な朝食を摂り、七時半には家を出る。仕事場では数字と帳簿に囲まれ、無言で時を過ごす。夕方には静かに帰宅し、夜は推理小説を読むか、お気に入りの芸人のラジオを聴くかして過ごす。そんな日々が延々と続いていた。

会計事務所の窓から見える景色は、変化に乏しかった。隣のビルの灰色の壁と、遠くに見える海の一部が、彼女の視界のすべてだった。彼女の机の上には、きちんと並べられた書類と電卓があった。朝子は一日中、黙々と数字を入力し、書類を整理する。彼女の正確さは所長にも認められており、昇給の話も出ていた。しかし彼女の心は常に何かを渇望していた。

電車で帰宅する途中、朝子は車窓から流れる景色を眺めていた。同じ景色を四年間見続けている。海岸線、小さな駅、住宅街。彼女は密かに思った。これが私の人生なのだろうか。平穏で、安定していて、しかし息苦しいほど変化のない日々。これが楽園というものであれば、なぜ私はこれほど物憂げな気持ちになるのだろう。

「物憂げな楽園。」

朝子は自分の声に驚いた。

何の前触れもなく口から零れた言葉だった。窓にうっすらと映る自分の顔は、二十七歳とは思えぬほど生気を欠いていた。彼女は長い黒髪を梳き、質素な上着を脱いだ。装飾は一切なく、化粧も最低限だった。

その日の夕方、朝子はいつもの散歩道を変え、海辺へ向かった。夕陽が沈みかける海は、金色に輝いていた。彼女は砂浜に座り、波の音を聞いた。波は規則正しく寄せては返す。それは彼女の人生のように予測可能で、静かであった。

「これって楽園なのかな」と朝子は海に向かって呟いた。

華やかな地獄

新宿の夜空には星一つ見えなかった。無数のネオンサインが夜を侵食し、人々は蟻のように行き交っていた。龍一は人混みの中に立ち、自分の影の薄さを感じていた。

広告代理店のクリエイティブとして働く彼の日々は、締切りと上司の叱責で満ちていた。朝は早く、夜は遅く、休日も仕事に追われることが多かった。しかし、彼の才能は認められ、給料は悪くなかった。

深夜1時、龍一は自宅に帰った。彼の住むマンションは麻布の中心部にあった。洗練された空間で、窓からは東京の夜景が見えた。部屋には仕事の資料が散乱している。食事をするスペースはテーブル上に散らばった資料の隙間だ。食事は外食か配達に頼ることが多く、自炊をすることはほとんどなかった。

龍一の人生は、外部からは羨望のまなざしで見られるようなものかもしれない。彼の作品は賞を受け、上司からの評価も高かった。しかし、彼自身は空虚感を抱えていた。彼の創作は彼の魂から生まれるものではなく、市場の需要に応えるために作られたものだった。本当の自分とは何なのか、彼は見失いつつあった。

「華やかな生活、でも地獄。」

彼はスマホのメモ帳アプリにそうテキストを入力した。手首には高級な時計が光っていた。龍一の表情は疲れを隠せず、目の下にはクマができていた。

次の金曜日、龍一は酒に溺れていた。高級バーで一人、ウイスキーを飲んでいた。隣には知らない女性が座り、話しかけてきたが、彼はほとんど聞いていなかった。彼の心は別の場所にあった。どこか遠く、静かで、星の見える場所。

(この華やかさの中で、俺は滅びつつある)と龍一は思った。

(つづく)

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