「都会と田舎、どちらが多様性があると思いますか?」と聞かれたら、
多くの人は、やはり「都会」と答えるだろう。
人が多く、文化が混ざり合い、価値観もバラバラ。いかにも多様性にあふれた場所のように思える。
確かに、数の上ではそのとおりだ。東京や大阪のような都市には、地方では見かけないような人たちがたくさんいる。
だが、本当に“多様性に触れる機会”が多いのは、都会ではなく、むしろ田舎ではないか――そんなことを考えた。
都会では「似た者同士」で集まりやすい
都会にはいろんな人がいる。ただ、それと「いろんな人と関わる」ことは、まったく別の話だ。
人が多い分、自分と似たような価値観の人も多い。そうなると、人付き合いの選択肢も増える。自然と「気の合う人」や「自分に近い人」と一緒にいるようになる。価値観が近いほうが楽だからだ。
自分も18歳のときに上京したころ、「いろんな人と出会いたい!」と意気込んでいたが、実際に仲良くなるのは、どこかしら自分と似たような人が多かったように思う。多様な人々に囲まれているようで、結局は“似た者同士”の小さな世界の中にいたのではないかという気もする。
田舎では「違う人」と関わらざるを得ない
一方、田舎ではそもそも人が少ない。選べるほど人がいないから、好むと好まざるとにかかわらず、いろんな人と関わることになる。
価値観の違う人、世代の違う人、生活のリズムがまったく違う人。町内会、自治会、消防団、子どもの学校行事、地域イベント……そうした場では、自分とまったく違う人たちと付き合わざるを得ない。
もちろん、それが煩わしく感じる瞬間もある。でもそのぶん、自分とは異なる考え方や暮らし方に触れる機会は多い。
それは決してマイナスなことではない。むしろ、摩擦のある環境のほうが、自分の中に新しい視点が生まれたり、思わぬ発見があったりする。
公立小学校という“社会の縮図”
特にそれを強く感じるのが、田舎の公立小学校だ。
たとえば、自営業の子、農家の子、漁師の子、公務員の子、シングルマザーの家庭の子、三世代同居の子……家庭環境も親の考え方もバラバラな子どもたちが、同じ教室で学んでいる。それが当たり前の光景だ。
対照的に、都会の私立の“お受験小学校”では、似たような経済水準、教育方針、職業層の家庭が集まりやすい。
同質性が高く、居心地のよい環境かもしれないが、社会の多様さを肌で感じる場面は少なくなるのではないだろうか。
多様性とは「数」ではなく「交わり」
結局のところ、多様性とは単に「人の種類が多い」ことではない。どれだけ異なる価値観と交わり、ぶつかり、考え合えるか。そこにこそ意味がある。
都会には多様な人が“いる”。田舎には多様な人と“関わる機会”がある。
(もちろん、都会でも積極的に自分の価値観と異なる人と関わることはできる。だが全員がそのようにできるわけではない。)
数では都会にかなわない。
けれど、「出会いの密度」という意味では、田舎のほうがむしろ豊かかもしれない。
おわりに
「田舎には多様性がない」――そんなふうに語られることもある。でも実際は、その逆かもしれない。
多様な価値観とぶつかりながら、それでも何とかやっていく。
その積み重ねのなかに、面白い出会いや気づきがある。
そんな風に思う。
参考書籍:マシューサイド『多様性の科学』
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